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自己中心思考の転換

 

翻訳見本

金持ちとなるための科学

(引き寄せの法則)

 

 

 ウォレス・ワトルズのThe Science of Getting Richは、自己啓発の古典として知られており、日本語でもいくつもの翻訳が出ています。下記の翻訳は、それら訳書を一切参照せず、当サイトで独自に作成したものです。

 ワトルズの思想は、「引き寄せの法則」として知られており、現在も多くの自己啓発・成功指南の考え方の基本となっています。

 ここでは、第3章までを掲載しています。全文の内容については、「ワトルズ」に関する市販書、または「引き寄せの法則」をご参照下さい。

 

 市販書の例

 『富を「引き寄せる」科学的法則』

 『富を手にする「ただひとつ」の法則』

 『確実に金持ちになる「引き寄せの法則」』

 『図解幸せとお金を引き寄せる確実な法則』

 

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1章 裕福となる権利

 

(1) 清貧がいかに讃えられようとも、裕福でなければ真に完全な、あるいは成功した人生を送ることはできないという事実に変わりはない。潤沢な資金なくして才能や魂を、可能な高みにまで押し上げ羽ばたかせることなど誰にもできない。魂の発展にも才能の開花にも多くの物を用いなくてはならないのに、購入するための資金がなければこれを手に入れることができないからである。人は物を用いることにより精神を、魂を、そして身体を発達させるのであるが、社会は、人が物の所有者となるには金銭を得なければならない仕組みになっている。だからこそ、あらゆる進歩の基礎として、裕福となるための科学的方法がなければならないのだ。発展こそすべての生命の目的であり、生きとし生けるものには自らの可能な限りの発展を成し遂げるという、奪うことのできない権利があるからである。

 

(2) 人間が生きる権利とは、自らの精神、魂そして身体の可能性を最大限に拡げるために必要となるものすべてを自由かつ無制限に利用することができる権利を意味する。これを言い換えれば、裕福となる権利である。本書で言う「裕福(豊か)」とは比喩ではない。真に豊かであるとは、わずかなもので満足するということではないのである。何びとも、より多くのものを利用し享受できるというのに、わずかなもので満足するべきではない。自然の目的は生命の進歩と発展なのだから、誰もが生命の力、気品、美そして豊かさに資するものすべてを享受するべきなのだ。わずかなものに甘んじるのは罪である。生き得るすべての生を生きるために、その欲するものすべてを所有する人は豊かであるが、何びとも、潤沢な資金なくしてその欲するものすべてを得ることはできないのである。人生が進歩し複雑なものとなるにつれて、ある意味で完全なものに近づきつつある生を生きるために、市井の人々でさえ大いなる富を必要としているのだ。

 

(3) 誰もが生まれながらにして、自らのなり得るべきものすべてになりたいと望む。自分に本来備わっている可能性を実現したいというこの欲求は人間の本性に根ざすものであるから、我々は自らがあり得るべきものすべてでありたいと望まないわけにはいかないのだ。人生における成功とは、なりたいものになることである。人は物を利用してこそ己のなりたいものになることができるが、物を自由に用いることができるのは、裕福にしてこれを買うことができる場合だけである。それ故に、裕福となるための科学的方法を知ることは、あらゆる知識のなかで最も枢要なことなのだ。裕福になりたいとの思いは、いささかも咎められるべきではない。豊かさへの欲求は、実はより豊かな、完全な、そしてあふれんばかりの生への欲求なのであって、かかる欲求は賞賛に値するのである。より豊かな生を生きたいと望まない者は異常であり、よって望むものすべてを買えるだけの金銭を所有したいと望まない者も異常なのだ。我々は三つの目的を動機として生を営んでいる。すなわち、我々の生は肉体のため、精神のため、そして魂のためにある。これらのうちどれかが他方よりも善であるとか、より尊いなどということはない。すべてが同じように望ましいのであり、肉体、精神そして魂という三者は、どれか一つでも満ち足りた生命とその発露を欠くとすれば、どれ一つとして全き生を生きることなどできないのである。

 

 

(4) 魂のためにのみ生き、精神や肉体を否定することは正しくも崇高でもないし、専ら知性をこととし肉体と魂を認めないのも誤った生き方である。肉体を生の目的とし、精神と魂を疎かにした結果がいかに忌まわしいものであるか我々はみな知っているし、現実の生を見れば、これこそ人の肉体、精神そして魂から発せられるものすべてを余すところなく現していることが分かる。口では何と言おうと、五体の機能すべてが健全に働いていない限り誰も真に幸福ではあり得ず満ち足りることもないのだ。精神と魂についても同じことが言える。実現されなかった可能性、あるいは果たし得なかった働きがあるなら、そこには必ず満たされない欲求がある。欲求とは、可能性を実現しよう、あるいは役割を果たそうと希求することだからだ。

 

(5) 十分な食事、快適な衣服そして暖かな住処に恵まれなくては、さらに過酷な労役からの解放がなければ、肉体的に満ち足りた人生を生きることはできない。身体的生活にとっては、休養をとり英気を養うことも必要である。書物とこれに没頭する時間に恵まれ、各地を巡って見聞を広めるだけでなく、知的な交遊を楽しむ機会がなければ、精神的に満ち足りた人生を生きることはできない。満ち足りた精神生活を送るには、知的な楽しみがなければならないし、あらゆる芸術作品や美しい品々を身近に置いて、これらを自ら用い鑑賞することができなければならない。魂の満たされた人生を送るには、愛はなくてはならないものだが、愛の完全な実現は貧困により妨げられるのである。

 

(6) 人として最高の幸福は、愛する者に福利を与えることにある。与えるとき、愛はありのままの形で、おのずから立ち現れる。与えるべき何ものも持たぬ者は、夫として、妻として、あるいは親として、公民として、すなわち人間としての本分を全うすることができない。形あるものを用いてこそ、人はその肉体に全き生命を見出し、精神を涵養し、魂を開花させる。故に、一人一人にとって、裕福であることの重要性は計り知れないのである。裕福でありたいと望むことは完全に正しいことだ。男であれ女であれ、正常な人であればそう望まないわけにはいかない。裕福になるための科学に対して最大限の注意を払うことは至極当然である。これこそあらゆる学びのなかで最も尊く、かつ最も必要なものだからだ。かりそめにもこの学びを疎かにするなら、己自身と、神、そして人類に対する責務を怠ることになる。何となれば、己を最大限に生かすことこそ、神そして人類に対してなし得る最大の奉仕であるからである。

 

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