Home

自己中心思考の転換

 

翻訳見本

金持ちとなるための科学

(引き寄せの法則)

 

 

 ウォレス・ワトルズのThe Science of Getting Richは、自己啓発の古典として知られており、日本語でもいくつもの翻訳が出ています。下記の翻訳は、それら訳書を一切参照せず、当サイトで独自に作成したものです。

 ワトルズの思想は、「引き寄せの法則」として知られており、現在も多くの自己啓発・成功指南の考え方の基本となっています。

 ここでは、第3章までを掲載しています。全文の内容については、「ワトルズ」に関する市販書、または「引き寄せの法則」をご参照下さい。

 

 市販書の例

 『富を「引き寄せる」科学的法則』

 『富を手にする「ただひとつ」の法則』

 『確実に金持ちになる「引き寄せの法則」』

 『図解幸せとお金を引き寄せる確実な法則』

 

翻訳業務に関するお問い合わせ、ご依頼は

ebook@digitalwriters.org

または

Tel: 05036119376

 

 

2章 裕福となるための科学がある

 

(7) 裕福となるための科学的方法は現実に存在しており、しかもこれは代数や算術と同様の精密科学である。富の獲得過程を支配する一定の法則というものがあって、誰でも一度その法則を学びこれに従うならば、数学的に厳密な正確さをもって裕福となることができる。金銭や財産の所有は、ある一定の方法に従って行動した結果としてもたらされるのであって、意図的に行っているか偶々そうしているかを問わず、かかる一定の方法に従って行動した者は裕福となり、その一方で、いかに精励刻苦し、かつ有能であろうと、かかる一定の方法に従って行動しない者は何時までも貧しいままなのである。

 

(8) 同様の原因は常に同様の結果を生ずるのが自然の法則であるから、それ故に、この一定の方法で行動することを身につけた者は、男女を問わず、間違いなく裕福となるだろう。これが真実であることは、環境によって裕福になるのではないという事実によって示されている。もし裕福となることが環境に左右されるのだとしたら、ある地域では住民全員が資産家となっているはずである。金持ちばかりの都市があるかと思えば、貧乏人しかいない町もあることになるだろう。あるいは、ある州では州民すべてが富裕であるのに、隣の州の住民は一人残らず貧困の淵に喘ぐということになるはずである。けれども実際は何処へ行って見ても、金持ちと貧乏人は同一の環境で隣り合うように暮らしており、同じ職業に就いていることも多い。同じ地域で生活し同じ仕事をする二人のうち一人が裕福であるのにもう一人がずっと貧しいままなら、この事実が示すのは、富の獲得は本来、環境に左右されないということである。より好ましい環境というものはあるだろうが、同じ仕事に就いている二人が同じ町内にいて、一人が裕福となる一方でもう一人が破綻するのだとしたら、そこから知られることは、富とはある一定の行動の結果であるということである。さらに、かかる一定の行動をなす能力は、単に才能によるものでもない。それというのも、偉大な才能があるにもかかわらず貧しい人は数多くいるが、格別な才能らしきものはなくとも裕福となる人がいるからである。

 

(9) 裕福となった人々について調べてみると、彼らは特段の才能や能力があるわけではなく、あらゆる点で平均的な人たちであることが分かる。金持ちが金持ちとなったのは他人にない才能や能力があるからではなく、たまたまある一定の仕方で行動しているからであるのは明白だ。裕福となるのは、貯蓄や倹約の結果ではない。多くの貧しい吝嗇家がいる一方で、鷹揚な浪費家が裕福となることもしばしばである。他者ができないことをするから裕福となるのでもない。二人の人が同じ仕事に就いていれば大抵そっくり同じようなことをしているだろうが、二人のうち一方は金持ちとなっても、もう一人は貧しいままか、場合によっては破産してしまうこともあるからだ。こういった事実すべてから得られる結論として、裕福になるのは、行動する際に一定の仕方に従ったことの結果であると言わざるを得ない。一定の仕方で行動した結果として裕福になるのであれば、そして同様の原因は常に同様の結果を生ずるのであれば、男であれ女であれ、かかる一定の仕方に従って行動ができるならば、誰もが裕福になることができるのである。しかも、すべては精密科学の範囲内で解釈され得る問題である。

 

 

(10) ここで生ずる疑問とは、かかる一定の方法に従うのが極めて困難であって、ごく少数の人たちしかこれをなし得ないのではないかということだ。すでに見た通り、(生来備わっている能力に関する限り)そんなことはあり得ないのである。才ある人たちが金持ちになるなら、凡庸な人々も金持ちとなる。知的能力に秀でた人々が金持ちとなるなら、極めて愚鈍な者たちも金持ちとなる。質実剛健な人たちが金持ちとなるなら、虚弱で病気がちの人々も金持ちとなるのである。もちろん、ある程度の思考力と理解力がなければならないが、生まれつきの能力という点では、男女問わず、本書を読んで理解できるだけの分別さえあれば、確実に裕福になれるのである。また、これが環境の問題でもないことはすでに見た通りである。とはいえ、場所が全く無意味だというわけでもない。サハラ砂漠の真ん中に行って商売を成功させることなどできないだろうから。

 

(11) 裕福となる要素として、人を取引相手とし、取引相手となる人々のいる所にいる必要があるし、希望する取引方法が彼らの指向と一致すればさらによいということはある。だが、環境が関わるのはそこまでである。町の誰かが裕福になれるなら自分も裕福になれるし、州の誰かが裕福になれるなら自分も裕福になれるのだ。繰り返すが、これは特定の仕事や職業選択の問題でもない。あらゆる仕事の、あらゆる職業の人たちが裕福になっているが、その一方で彼らの隣人は、全く同一の職に就いていながら、貧しいままなのである。

 

(12) 確かに、自分に合った好きな仕事に就けば上手くいくだろう。一定の才能を磨けば、その才能を要する仕事で成功できるだろう。また、地の利を得た仕事なら上手くやれるはずであって、アイスクリーム屋をやるならグリーンランドより温暖な気候が好いだろうし、鮭漁ならばフロリダでするよりも北西部に商機があろう。フロリダで鮭は獲れないからである。けれども、このような一般的な限界はさておき、裕福になるための条件とは特定の仕事に従事することではなく、ある一定の仕方で行動できるようになることである。自分が現在就いているのと同じ仕事を、同じ地域に住む別の誰かが行って裕福になっているのに自分が裕福でないとしたら、それは単に、その人がしているのと同じやり方では仕事をしていないからなのだ。

 

(13) 資本がないために裕福になれない人などない。むろん、資本はないよりもある方が増殖は容易かつ迅速だが、資本がある人はすでに裕福なのだから裕福になる方法など考える必要はない。だが、いかに貧しくとも、ある一定の方法に基づく行動を始めるならば次第に裕福となり資本も得られるだろう。資本の獲得は裕福となる過程の一部であり、ある一定の行動の仕方に伴う必然的な結果の一つなのである。ここに大陸で最も貧しく、借金にまみれた人がいるとしよう。友もなく、影響力もなければ何らの資源も持たぬ者である。ところが、かかる方法に基づき行動し始めるとすればやがて間違いなく裕福となる。何故ならば同様の原因は必ず同様の結果を生じないわけにはいかないからである。資本がなくとも、資本は得られる。今の仕事がだめでも、好い仕事に就ける。今の場所がだめでも、好い場所に移れる。しかも、そうするには、現在の場所にいて現在の仕事を続けながら、常に成功が約束されたある方法に基づく行動を始めるだけでいいのだ。宇宙を支配する法則と調和した生き方を始めなければならないのである。

 

3章へ

1章に戻る