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自己啓発本の古典

 

寄付のパラドックス

自己中心思考を転換する方法

 

あの『金持ち父さん』でさえも・・・

 人生における幸福やビジネスの成功をいかにして引き寄せるかといった方法や成功哲学を説く本は多い。「自己啓発本」と呼ばれるこの種の本の読者には、文字通り啓発され、その教えを実践しようとする人たちがいる一方で、その「信じる者は救われる」的な口調をうさん臭く感じ、反発を感じることも少なくないと思われる。おそらく自己啓発本の主流をなすアメリカ人の著者の多くはキリスト教の信仰が篤いこともあって、まさに成功哲学の根幹に触れようとするところで「神」を持ち出そうとする傾向がある。「これは理屈じゃない」ということかも知れないが、東洋の島国に住む異教徒からすると何とか理屈で説明して欲しいところだ。

 ところで、こんな「自己啓発本」に対する疑問の一つに、「寄付」の問題がある。金持ちになりたければ、あるいはビジネスで成功したければ、教会や慈善団体などに収入の一部を寄付しなさい、というのだ。アメリカ系の成功哲学では、このような教えを説く著者は多い。あの『金持ち父さん』のロバート・キヨサキやシャロン・レクターでさえそう言っている。なかでも過激なのは『こころのチキンスープ』のマーク・ビクター・ハンセンで、彼によれば私たちは収入の十分の一(!)は寄付に回すべきなのだという。そんなことで本当に成功できるのだろうか。

 

 

35セントの奇跡

 そんな疑問に対して、マーク・ビクター・ハンセンは、次のような実話で応えている。彼がまだ無一文だったころの仕事仲間で、チップ・コリンズという講演家のエピソードだ(『史上最高のセミナー』きこ書房)

 「チップが最初に講演の仕事を始めたとき、彼には妻と二人の赤ん坊がいた」。ところが仕事の依頼がないまま資金が尽き、ポケットの35セントを残すだけになってしまった。途方に暮れた彼は、その35セントを教会に寄付して、泣きながら神に祈った。そして教会を出て行こうとするとき、一人の男に呼び止められた。男はこう言ったという。

 「君は先週わたしのオフィスにやってきて、講演の仕事をさせてくれないかと頼んだね。君を雇うことに決めたよ」

 マーク・ビクター・ハンセンによれば、十分の一を寄付するとは、神から与えられたうちの10パーセントを神に返すことであって、そうすることによって私たちは神に少し近づき、神もまた私たちに少し近づいてくれるのだという。敬虔なアメリカ人読者であれば、それで納得するのかも知れないし、そう思って彼の言う通りにできるのならそれも善いことだとは思うのだが、同じことを言われて素直に受け容れられる日本人は、そう多くはいないのではないだろうか。

 

「自己啓発本」は、宗教的プロパガンダか

 チップ・コリンズのエピソードにしても、普通に考えれば、彼が教会でなけなしの35セントを寄付したということと、講演の仕事を得られたということに因果関係があるとはおよそ認めがたい。つまり、教会を訪れた彼がそこで全財産を寄付しなかったとしても、おそらく講演の依頼はあっただろうと思うのが普通である。たまたま同じ教会に依頼主が居合わせていたことは、アメリカのビジネスにおける宗教的コミュニティの大切さを示すものではある。しかし、だからといって「神のお導き」だとは証明できないし、ましてそれが金銭的な寄付のあるなしの影響を受けるとは信じられないだろう。

 それでは、自己啓発本の著者たちがあれほど口を酸っぱくして繰り返し説く「寄付」の効果とは、単なる宗教的なプロパガンダに過ぎないのだろうか。

どうやら、そうだとも言い切れないのである。そこで、この文章では、「寄付」というものが成功哲学において何故これほどまでに重視されるのか、宗教色を一切排した形で考察してみたいと思う。

 

 

植物に「ありがとう」と言うこと

 あまり関係ないようだが、植物に「ありがとう」と言うとよく育つとか花がきれいに咲くという話がある。これを表面的に解釈して、そんな非科学的なことを子どもに教えるべきではないと論じる人がいるがナンセンスである。これは植物の生態の話ではなくて、人の態度のことを言っているからだ。相手が植物であっても「ありがとう」と言いながら接していれば、水遣りを忘れなくなるなど、自然にていねいに扱うようになる。従って、結果的によく育ち、きれいな花も咲くのだということだろう。

 「寄付」についても同じように解釈してはどうだろうか。いつ寄付したか、いくら寄付したかというような問題ではなく、収入の十分の一ものお金を、惜しげもなく寄付してしまうような人たちが、どのような態度でふだん人に接しているのかを、想像してみるべきなのである。チップ・コリンズのエピソードで言えば、全財産がわずか35セントになったときにこれを教会に寄付してしまうような人が、どんなふうに仕事をし、家族や友達を扱っているかを考えてみることだ。そこに浮かび上がるのは、強烈なまでの無私と、捨て身とも言える信念の人の姿ではないだろうか。

 つまり本当の主題は「寄付」そのものではなくて、人の生きざまなのであって、ただそれが「寄付」という行為にあらわれているにすぎないのだ。

 

寄付と感謝の心

だが、「ありがとう」と言えば人の態度が変わるように、「寄付」という行為がきっかけになって、人の生きざまが変わることもありえないわけではない。成功哲学において、あれほどまでに寄付が強調されるのは、それが人を変える力をもっているからだろう。

 では、「寄付」をすることによって、人はどのように変わるのか。あるいは、変われるのだろうか。

 まず考えられることは、ポジティブになれるということ。そして、「感謝の心」が持てるということだ。

 「寄付をすれば、感謝の心が持てる」。これについては、やや込み入った説明が必要だろう。

 なぜかと言えば、一見するとこれは逆転した議論のようにも思えるからだ。ありていに言えば「感謝」するべきなのは寄付を受ける側であり、寄付をすれば「感謝される側」になるわけである。ところが、深層心理学的に言えば、必ずしもそうではない。

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