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自己中心思考の転換

 

ニート・ひきこもりのための

「自営ビジネス」ガイド

 

Part 1 誰もニートやひきこもりを非難できない

 

ニートやひきこもりがおかしいのではない。世の中がおかしいのだ

 このサイトでは、以前から「世の中がおかしい」と訴えているのだが、いわゆるニートやひきこもり()の存在は、そんな「世の中のおかしさ」を象徴している。ニートやひきこもりがおかしいのではない。世の中がおかしいから、ニートやひきこもりが生まれるのだ。

 ()一般的に言って、いわゆる「ニート」と「ひきこもり」を一緒くたにして論じるのは適当ではないと思われるが、ここではあえて同列のものとして扱う。ニートは仲間や友人との付き合いがあるなど、社会的なつながりがまだ保たれている状態であり、ひきこもりにはそれがない。これは重要な違いである。ただ、どちらも無業であることは共通しており、ニート状態が長引けば次第に社会的なつながりが希薄となり、ひきこもりに近づいて行くおそれもある。だからニートとひきこもりの違いは、社会(他人)とのつながりの濃さの違いであり、その意味に限定する限りでは程度の差であると言えなくもない。

 

 

 実は、ニートやひきこもりについて考えるとき、まず前提にしなければならないのが、この社会の「異常さ」である。「社会の異常さ」に気が付かなければ、問題の本質を見誤ってしまうだろう。

 その「異常さ」とは、例えば、次のような形であらわれる。

 

「社内暴力や洗脳に近い長期研修には疑問を覚えた。外部からの情報が遮断された隔離環境で、切々と土下座営業の美学を説かれた。深夜の自由時間に禁止されていたテレビを見ていたことを咎められ、6時間立たされ、同期の男性は殴られ、「おまえらに人権はない」と怒鳴られ・・・」(『人生のつくり方』サンマーク出版)

 

 これはバブル期における、ある大手証券会社の新人研修の思い出だという。今ではこんなことはないと言われるかも知れないが、あらわれ方が違うだけで、本質は変わらない。むしろ、いわゆるブラック企業などではなく、かつての好景気に沸いた時代に、当時の花形企業であった大手証券会社の実態がこうであったということの意味を考えるべきだ。近年、社会問題化しているいわゆるブラック企業は、単にこの文化を引き継いでいるにすぎない。

 

就職活動の「暴力」

 こんなことは一部の企業だけの問題だと思われるだろうか。しかし、そう言われる方であっても、今や大学時代の大半を費やす就職活動の過酷さは知っているかも知れない。

現在のような就職活動を学生に強いることは、一種の暴力である。いや、これが暴力でなくて何だろうか。もし、まだ人生経験の浅い20歳ほどの若者の身辺に執拗につきまとい、本来送るべき社会生活・学生生活を妨げて精神的に疲弊させ、あげくに鬱病などの発症に至らしめる者があるとするならば、それは明らかに暴力であり、傷害罪に問われるべき行為だろう。ところが企業が学生に強いている就職活動は、これと変わらない。この状態を放置して平然としている日本企業は、一見優良企業に見えてもその根っこの部分では「ブラック」と何ら変わるところがないと言うべきだ。現に、派遣社員などの非正規労働者に対しては、どんな優良企業も「ブラック」として振舞っているではないか。

 

 

誰もニートやひきこもりを非難できない

 しかも日本の異常なところは、大多数の人たちが曲がりなりにもこの状態に適応してしまっていることである。

「曲りなりに」ということは、それで幸福だとか、満足しているわけではないが、何とかやっているということだ。もちろん、そこにひずみが生じ、ほころびが出ないということはない。それが端的にあらわれるのが「職場のうつ」であり、それがひいては「ニート」や「ひきこもり」につながっていく。

 一般に、暴力を目の当たりにしたとき、人々の反応はいくつかのパターンに分れる。

ひとつは、見て見ぬふりをすること。もうひとつは、同調し、暴力を振るう側に回ること。そして、矛先が自分に向けられる前に逃げること。これに対して、あえて暴力を止めようとするのは相当な勇気がいる行為だ。とりわけ、それが限りなくむだな抵抗に近いとわかっているのにそうすることは、無謀であり、愚行とみなされることさえある。

 「ニート」や「ひきこもり」とは、言わば「逃げた側」である。暴力のけはいを察知して身を隠した人もいるだろうし、すでに傷付けられ、命からがら逃げ出した人もいるかも知れない。いずれにしても、身を守るための当然の振舞いである。誰がその行為を非難できるだろうか。

 

良心は彼らの側にある

 それなのに、ニートやひきこもりの人たちは、しばしば「怠け者」呼ばわりされている。

こんなことになるのは、戦時において、良心的兵役拒否者や反戦運動家が「裏切り者」「卑怯者」としてなじられるのと似た心理がはたらくからかも知れない。

平時にあっては平和こそ正義であるというのに、人々が平和をあきらめたとたんに平和主義者は「裏切り者」とされ、「卑怯者」扱いされてしまう。「みんなが頑張っているのに、あいつらだけラクしやがって」というわけだ。

戦時は、確かにみんながつらい時期だ。しかし、平時か戦時かにかかわりなく、本来は平和こそが最も尊重されるべきものであり、良心は平和の側にあることに変わりはないだろう。

これと同様に、仮に「ニート」や「ひきこもり」が仕事という試練を前に「敵前逃亡」をしたのだとしても、それを非難されるいわれはまったくない。彼らは「社会の暴力」を目の当たりにしたのだ。そして、その暴力に対して、「見て見ぬふりをする」ことも、ましてや「同調し、暴力を振るう側に回る」ことも潔しとしなかった。ただそれだけのことである。

彼らには暴力を止める勇気はなかったかも知れない。しかし、良心は彼らの側にある。そのことは認められていい。

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2. ニート、ひきこもりの就労と自営ビジネス 

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